木造 五智如来坐像5躰

県指定美術工芸品 木造五智如来坐像ごちにょらいざぞう5躰

指定年月日:平成8年11月1日  所在地:西都市大字三宅字国分 木喰五智館

 五智如来像は、江戸時代に全国行脚の途中この地を訪れた木喰上人によって作像された仏像である。木喰上人とは、米穀を断ち、木の実・葉菜を食して修行する苦行僧の1人である。
 木喰上人は、享保3年(1718年)、甲斐国(山梨県)西八代郡丸畑村に生まれた。14歳の時江戸に出奔し放浪生活の末、22歳の時真言宗の高僧に道を説かれて仏門に入り戒名を行道とした。45歳の時、陸奥の木喰観海上人から木喰戒を受け、安永2年(1773年)、55歳で日本国修行の旅に出た。安永10年(1781年)には越後、佐渡、さらに伊勢、熊野を経て天明8年(1788年)、四国から九州にわたり、南下して日向の国に入った。それからの10年間を日向の地で過ごすこととなる。
 日向国分寺は、奈良時代、聖武天皇によって国分尼寺とともに国ごとに置かれた寺で、仏教政治の中心地として発展していった。ところが、全国に広まった荘園制化の国分寺は次第に衰退し、日向国分寺も例外ではなかった。
 木喰上人が、近世に再興された日向国分寺の住職となって3年後の寛政3年(1791年)、国分寺は火災により焼失した。翌年、国分寺再建の大願を立て、伽藍の再興に着手するとともに五智如来像の彫刻にも取り掛かった。それが現存する五智如来坐像である。
 寛政9年(1797年)、国分寺を離れた木喰上人は、薩摩、肥後を廻り翌年には再び佐土原に姿を現している。その後、周防から四国、さらに伊勢、駿河を経ていったん郷里に帰り、享和2年(1802年)85歳で3度廻国の旅に向かっている。その間、各地に約700躰の仏像を残している。甲府教安寺の七観音像を刻してのち消息を絶つが、文化7年(1810年)、93歳で入定したと伝えられている。
 木喰上人の仏像は丸みと微笑を特徴とするものであるが、日向に残る木喰仏は、まだ微笑を表現していないことが知られる。

宝生如来座像.jpg薬師如来座像.jpg釈迦如来座像.jpg阿弥陀如来座像.jpg大日如来座像.jpg

(画像は左から宝生如来坐像、薬師如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、大日如来坐像)

引用・出典:『西都市の文化財』

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