西都原古墳群

国指定特別史跡 西都原さいとばる古墳群

指定年月日:昭和27年3月29日  所在地:西都市大字三宅 西都原

位置・立地

西都原古墳群2.bmp 特別史跡西都原古墳群は、宮崎県のほぼ中央を東流する一ツ瀬川の中流右岸、西都市街地の西方に位置する。標高60から80メートルの通称「西都原台地」を中心に古墳が立地し、その範囲はおおよそ南北4.2キロメートル、東西2.6キロメートルにも及ぶ。指定面積は58ヘクタールを超え、その約9割は国、宮崎県、西都市の公有地となっている。

古墳の総数

 現在、宮崎県教育委員会が管理する『古墳台帳』に記載されているのは317基で、それに陵墓参考地の男挟穂塚・女挟穂塚を加えた319基が公的な数である。内訳は、前方後円墳31基、方墳1基、円墳287基である。近年の再整備に伴う点検作業で未指定古墳が確認され、発掘調査や地中探査などでも削平された古墳が判明するなど、実際には320基を超える古墳が存在したことは確実である。ただし、西都原古墳群では、古墳の分布する台地面やそれらを開析する大小の谷地形、古墳の築造年代などによって、10から13の単位に区分される。これらは、古墳の築造集団の単位ととらえることもでき、その場合、同時期的に複数が存在したものと理解できる。このようにして築造された古墳の総体が西都原古墳群である。

地下式横穴墓と横穴墓

 西都原古墳群には、墳丘を有する古墳に加え、南九州に特有の地下式横穴墓や、全国に広く分布する横穴墓が混在する。西都原古墳群においては、これらの地下式横穴墓や横穴墓は、円墳の裾部や墳丘下に存在するものが多い。

史跡指定と調査履歴

舟型埴輪.bmp 西都原古墳群に関する最初の記述は、文政8年(1825年)の児玉実満による『笠挟大略記』である。その後、幕末から明治時代にかけて散見される記録類の中で注目されるものとして、明治21年(1888年)にイギリス人であるウィリアム・ゴーランドが記した鬼の窟古墳の略測図がある。
 明治28年(1895年)には、男挟穂塚・女挟穂塚が宮内庁より陵墓参考地に治定された。
 大正元年(1912年)から行われた西都原古墳群の発掘は、わが国初の本格的・組織的な古墳の発掘として、学史に刻まれている。当時の宮崎県知事であった有吉忠一の発案によるもので、貴重な文化資産である遺跡の保護を目的としながら、「皇祖発祥の地」としての本県の歴史を実証しようとする意図も含まれており、東京・京都の両帝国大学、帝室博物館、宮内庁から学者を招聘し、大正6年(1917年)まで30基の古墳が発掘された。
 昭和9年(1934年)に「史跡名勝天然記念物保存法」により史跡に指定され、昭和27年(1952年)には「文化財保護法」により特別史跡に指定された。
 昭和41年(1966年)からは、「風土記の丘整備事業」として面的な公園整備が実施された。この整備では、古墳群の歴史的な理解よりもイメージとしての景観整備が優先され、昭和43年(1968年)には、ガイダンス施設として「西都原資料館」が設置された。
 その後、偶発的な発見による地下式横穴墓の調査などはあったものの、計画的な発掘調査は行われなかったが、平成7年(1995年)から、古墳群の保存整備・活用を目的とした発掘が開始され、大正期調査の検証や古墳群の史的変遷を理解するための調査と整備が行われている。
 平成9年(1997年)には、県教育委員会により男挟穂塚女挟穂塚陵墓参考地の測量が実施された。これは自治体として全国で初めての調査であり、詳細な測量図が作成された。 

引用・出典:『西都市史 資料編』
考古 古墳時代 18 西都原古墳群

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